かつて存在した蒲鉾店、和泉屋を探る

大正から昭和の初めまで小石川の原町で営業していた和泉屋(いずみや)という蒲鉾店は、多くの蒲鉾職人を輩出し、東京の蒲鉾店に大きな影響を与えたといわれている。今回は数少ない資料から情報をまとめ、お店のあった場所におもむくことで、在りし日の和泉屋の姿を想像してみたいと思う。

多くの蒲鉾職人を輩出した和泉屋

たとえ名店であったり、長く続いた老舗だとしても、閉業したあとには忘れ去られてしまうのが宿命だ。大正から昭和の初期にかけて存在していた和泉屋もその1軒だ。和泉屋は多くの蒲鉾職人を輩出し、戦後に増え続ける東京の蒲鉾店のルーツのひとつに数えられる存在だ。しかし、その功績を残す資料はほとんど存在せず、詳細は謎に包まれている。

「東京のかまぼこの歴史」東京都蒲鉾水産加工業協同組合発行、食糧市場新聞社制作協力

東京おでんだねの筆者が和泉屋を知ったのは、東京都蒲鉾水産加工業協同組合(通称、東京蒲鉾組合、東蒲)から発行している「東京のかまぼこの歴史」という小冊子からだ。当時働いていた職人さんから聞き取りした和泉屋の様子を2ページに渡って紹介している。

当時の和泉屋を知る斉藤氏(増田屋系列の斉藤氏か?)によると、和泉屋から独立した職人は多く、お店の系列のようなものを作って団結していたそうだ。屋号は和泉屋の名を用いず、出身地名や「蒲」の下に自分の名を1字つけるといったものが多かったので、現在ではその系譜をたどるのはほぼ不可能と言える。

高輪(三田)と下谷(根岸)に存在した和泉屋

和泉屋についてもっと詳しく知りたいと思い、国立国会図書館オンラインにアクセスしてみると、和泉屋の名が掲載されている書籍を見つけることができた。

東京市編, ジャパン・マガジーン社出版「東京市商工名鑑. 第5回」国立国会図書館
東京市編, ジャパン・マガジーン社出版「東京市商工名鑑. 第5回」国立国会図書館

上は昭和8年(1933年)に東京市が編纂、ジャパン・マガジーン社が出版した「第5回東京市商工名鑑」の1ページだ。蒲鉾の欄に和泉屋の名前が掲載されている(80ページ目、コマ番号111)。

よく見ると高輪店と下谷店の2軒が並んでいる。「東京のかまぼこの歴史」によると和泉屋は店を構える場所を転々とし、青山から牛込柳町、原町(小石川)へ移ったという。高輪と下谷の記載はなかったので別店舗と思われるが、屋号が一緒なので関わりが深いと推察できる。

東京都港区三田三丁目

「第5回東京市商工名鑑」によれば、高輪店の住所は「芝、三田、二ノ十八」。芝区三田2-18ということで、大正10年(1921年)の芝地区の地図(港区役所)を参照したところ、現在の「港区三田3-1-13」辺りということが判明した。

都営三田線三田駅やJR田町駅から歩いて数分。かつて和泉屋高輪店のあった場所は慶應義塾大学の目の前だった。すぐ向こうには東京タワーがそびえ立っている。

東京都港区三田三丁目

当然ながら当時の面影を残すものはなにひとつ残っていなかった。現在はラーメン屋や歯科医院などが並んでいるのみである。この周辺にはいくつか蒲鉾店が存在していたようで、海も近いことから原材料を仕入れるのに便利だったのかもしれない。

東京都台東区根岸三丁目:入谷口通り

次に、下谷店の場所へ訪れてみた。「第5回東京市商工名鑑」には住所が記載されていなかったが、「ぼくの近代建築コレクション」というブログで台東区根岸3丁目にあったことを確認できた。住所は根岸だが道を挟んで向こう側が下谷なので、ここが下谷店で間違いない。

東京都台東区根岸三丁目:入谷口通り

現場まで訪れると、大きなマンションがそびえ立っていた。平成28年(2016年)に新築されたものだという。このマンションが建つ前の平成18年(2006年)までは、和泉屋蒲鉾店が営業していた。

和泉屋蒲鉾店(根岸3丁目)左から平成元年(1989年)3月26日、平成3年(1991年)6月30日撮影:ぼくの近代建築コレクションより転載
和泉屋蒲鉾店(根岸3丁目)左から平成元年(1989年)3月26日、平成3年(1991年)6月30日撮影:ぼくの近代建築コレクションより転載

上の写真は「ぼくの近代建築コレクション」サイトから転載許可をいただいた、在りし日の入谷の和泉屋蒲鉾店の写真だ。前面は黒塗りの漆喰仕上げ、側面は板張りで塗屋造りという趣のある建物だ。

入谷の和泉屋蒲鉾店は明治時代から三代続いた老舗の蒲鉾店だった。林家三平さんや海老名香葉子さん、林家正蔵さんもお得意さまだったそうで、蒲鉾だけでなく煮こごりにも定評があったという。また、平成29年(2017年)に閉業した築地の佃権とも親交があり、商品開発のアドバイスも行っていたという。

東京都台東区根岸三丁目:入谷口通り

和泉屋蒲鉾店の隣にあった老舗の提灯屋はマンションの1階に入居しているが、和泉屋の面影はほとんど見られなかった。今となっては写真で当時の姿を確認できるのみだ。

下谷店は明治時代の創業で、「東京のかまぼこの歴史」に掲載されていた原町(小石川)の和泉屋は大正から昭和初期にかけて存在した。ということであれば、下谷店のほうが古いことになる。また、下谷店は高輪店の支店と思われるので、もっとも古いのは高輪店になるのであろうか。そもそも、原町(小石川)の和泉屋と下谷店・高輪店の関係性が不明なので、どこがもっとも古くてルーツであるのか判然としない。

原町(小石川)の和泉屋

最後に、原町(小石川)の和泉屋が存在したと思われる場所に訪問してみた。

東京都文京区白山5丁目:旧町名案内板「原町」

原町は旧町名で、現在の文京区白山3丁目から5丁目、千石1丁目一帯を指す。「東京のかまぼこの歴史」によれば、和泉屋は中仙道、現在の白山通り沿いにお店を構えていたらしい。

東京都文京区白山5丁目:白山通り

ほかの2軒と同じく、蒲鉾屋の面影はまったくなかった。当時の店構えは以下のようだったという。

間口は二間くらい。これを二つに仕切り、路面に向かって右側がガラス張りのウインドー、ここに品物をならべ、ウインドー越しに客と応対するというわけ。左側が紙張りの二枚づくりの障子戸で、そこに墨くろぐろと“ 和泉屋 ”と屋号を記している。店の奥はすぐ工場でウインドーの奥が板の間で、壁に面して長さ三尺ぐらいの分厚い楠製のマナ板が置かれている。そのさらに奥は機械、ロールがありそこですりみにしたものを板の間で製品にしつらえていたというわけだ。左半分は土間で水道、奥に釜といった配置である。

(引用:「東京のかまぼこの歴史」東京都蒲鉾水産加工業協同組合発行、食糧市場新聞社制作協力、昭和60年5月31日発行)

二間は3.64mなので少々小さめではあるが、ここで多くの蒲鉾職人が働き、独立していった。それにしても、下谷店の間口の狭さに近しいのは偶然だろうか。どちらかの店舗が間取りを真似したのか、それとも当時の一般的な蒲鉾店は皆このくらいの間口だったのかはわからない。

東京では関東大震災や戦時中の空襲によって戦前の古い文献のほとんどが焼失してしまった。また、当時をよく知る人を見つけるのは難しく、たとえご存命だとしても記憶が曖昧になっているため信憑性が低いものとなる。語り継がれるべき貴重な歴史を記録できないまま時が流れてしまうのは本当にもったいないことだ。

今回は、東京の蒲鉾店に大きな影響を与えたと思われる和泉屋について調べてみたが、まだまだ不明な点も多く引き続き調査が必要そうだ。新たな事実が判明した際にはアップデートしていければと思うが、読者の方もなにか手がかりがあればお問い合わせページからご連絡いただきたい。

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