八木竜太郎さん(蒲鉾の八木橋)インタビュー

今回は、千葉県野田市にある「蒲鉾の八木橋」を経営するかたわら、東京都蒲鉾水産加工業協同組合、通称東蒲の理事として活躍されている八木竜太郎さんのインタビューをお届けする。東京だけでなく全国の蒲鉾業界の発展のために奔走し、ご自身も二代目として蒲鉾屋を営み、職人として日々の鍛錬を怠らない。そんな八木さんの姿を通して、東京の蒲鉾やおでん種の魅力と、今後のあるべき姿を見直す機会につながればと思う。

蒲鉾の八木橋:八木竜太郎さん
「蒲鉾の八木橋」代表取締役の八木竜太郎さん(東京都蒲鉾水産加工業協同組合理事)

八木さんの熟練の技を動画で紹介

八木竜太郎さんといえば、成形技術の確かさで業界内では有名だ。八木さんの妙技をダイジェスト動画にまとめたので、ぜひご覧いただきたい。

また、日本かまぼこ協会の動画では、揚げ蒲鉾のほかに板付け蒲鉾やちくわ、なるとの成形も見られるので、そちらもチェックだ。

東京の蒲鉾屋さんの魅力はいろいろな原料(魚)を使いこなす技術力

– 今回はお時間をいただきましてありがとうございます。早速ですが、八木さんから見た東京の蒲鉾やおでんの魅力とはなんだと思いますか?

八木さん:古くからの伝統に支えられた商品力だと思います。昔から東京の蒲鉾屋さんは日本一の技術力を持っていたと思います。現在は冷凍すり身が主流になっていますが、東京の店舗ではすり身の段階から手作りをしているところが多くあります。

いろいろな原料(魚)を使いこなす技術力があり、その技術力は今でも全国有数だと思います。臼と包丁、まな板、釜があればさつま揚げが作れる。本人たちにとっては当たり前のことかもしれないですが、「実はすごいことなんだ」と認識し、誇りをもって営業をしていただきたいなと思っています。

蒲鉾の八木橋:八木竜太郎さん

もうひとつの魅力は、お客さんが店頭で職人が作る技を見ながら、できたての商品を購入できることです。さらにもうひとつ、個人商店ならではの魅力として、人情味のあるやりとりやサービスです。現在主流となった量販店では、なかなか真似できないと思います。

時代のニーズをとらえ、変化を好機ととらえる姿勢が大切

– より多くの人たち、とりわけ若い世代にその魅力を知ってもらうには、どのような課題があると思いますか?

八木さん:東京のおでん種とおでん文化は、まさしく「おでん」の原型です。それゆえに特に変わったことがなく、見慣れた「普通のおでん」です。しかしながら、近年ご当地おでんが盛んに騒がれてきたことで、あらためて「東京のおでん」が見直されるべきではないかと思っています。

蒲鉾の八木橋のおでん種
「蒲鉾の八木橋」のおでん種。生の魚を主原料に多くの工程を昔ながらの手作業で行っている

人はつい新しいものに目をうばわれがちですが、最終的には元の場所へ回帰すると思います。おでんは下町で引き売りをしていたころの文化だと認識しています。子どものころに駄菓子屋や近所の蒲鉾屋でおやつにしていた人も多いと思います。そのような東京の文化風習を今の子どもたち、次世代につなぐためには、まずそれを体験してきたはずの大人たちにあらためて魅力を認識してもらうことが大切だと思っています。そうすれば、彼らがおのずと若い世代に伝えるのだと思います。

私たち蒲鉾屋の役割はおでんを提供する場所や味を守り、魅力を創造し続けていくことだと思います。東京おでんだねさんのようなメディアで発信していくことも大切なことだと思っています。たとえば、1個たった10円の揚げボールを作るために、どれだけの経験や技術、苦労があるのかを伝えていくべきだと思います。作り手の思いをストーリーとして、スーパーなどで売られている量販品とは異なる魅力を発見してもらう努力が必要です。また、蒲鉾屋が抱える課題なども伝えていくべきだと思っています。

そしてなによりも、ごく普通のおでんやおでん種、さつま揚げを食べて喜んでいただくことが重要です。量販品とはひと味違う喜びを提供できれば、私たちの商売はこの先もなくならないのではないかと考えています。

蒲鉾の八木橋のおでん

過去には先人たちが時代のニーズをとらえて、蒸し蒲鉾からさつま揚げ、おでん種の製造へと専門分野を広げていきました。現在では、飲食業に乗り出す店舗が増えています。地域や営業状況に合わせて変化しているお店は元気だと思います。変化を好機ととらえて前を向いているお店や、志をもった若い後継者がいるお店は今後も繁盛していくと思います。

東京蒲鉾組合の理事として

– 八木さんは東京都蒲鉾水産加工業協同組合の理事をされています。就任した経緯を教えていただけますか?

八木さん:私のお店「蒲鉾の八木橋」がある千葉県には、銚子の蒲鉾屋さんが集まる千葉県煉り製品協会という団体はありますが、県単位の組合はありません。創業者である私の父が東京都の板橋区にあった蒲鉾屋さん(斉藤商店、閉業、東京都板橋区宮本町66)で働いていたことと、創業から原料入荷のために築地へ買い出しに行っていたことなどから、東京の蒲鉾組合に賛助会員として加入していました。

千葉県野田市:蒲鉾の八木橋
千葉県野田市にある「蒲鉾の八木橋」の店舗。八木橋の味を求めて遠方からやってくるファンも多い

父は組合の総会や懇親会、勉強会などには必ず参加していて、私も大学時代から組合の勉強会に参加していました。私が修行を終えて実家に戻ると、父と一緒に組合の行事に参加するようになりました。

私が技能検定で一級技能士の資格を取得すると、組合の蒲鉾教室のお手伝いを依頼されたり、技能検定の検定委員の仕事をするようになりました。これは組合員の減少、高齢化から依頼された経緯があります。正会員からの理事の成り手も少なくなって、若手も少ない理由から2013年に理事に就任しました。
最初はお断りしていましたが、親しくさせていただいていた前組合長の杉江さん(故人)に「今後の組合運営に協力してほしい、大学などで学んだ蒲鉾の知識を業界のために役立ててほしい」とのお言葉をいただき、就任を決意しました。

最盛期には200社を超える組合員数だった東京蒲鉾組合ですが、現在は30数社になりました。それでも、全国の地方蒲鉾組合の中で最多の会員数を誇っています。

– 組合はどのような活動をしているのでしょうか?

八木さん:原料や副資材の共同購入や全国蒲鉾組合(現:日本かまぼこ協会)との橋渡し、情報提供、行政との橋渡し、蒲鉾の販促やPR活動などが中心となっています。
東京蒲鉾組合からは2名の全国組合の会長も輩出していますし、東京という大消費地であり、全国組合のお膝元(全国組合は秋葉原に事務所がある)ということで、業界を支えてきたことは間違いないと思います。

その昔は総会や懇親会は大変な盛況ぶりで、組合の理事になることはステータスで、選挙のときは大変だったと聞いています。しかしながら、後継者の問題で組合員が少しずつ減ってきています。活動も組合の維持に比重がおかれつつあり、より先進的で建設的な活動をしていく必要があると思っています。

また、組合の現況に比例して東京の業者も減り続けています。事業承継の問題が一番だと思いますが、この原因としては、後継者不足、それにともなう高齢化、売上など事業の衰退があると思います。このままでは時代の経過とともに、益々業者数が減少していくことが予想されます。

お店の暖簾(のれん)や素晴らしい技術を持つ業者が廃業していくのは大変残念なことです。現在はM&Aや事業売却など、以前にはなかった新たな手法で暖簾や技術を残す方法もあります。最近、都内で廃業された蒲鉾屋さんから新しい芽が誕生したというニュースを耳にしましたが、とても喜ばしいことです。これからも暖簾や技術、蒲鉾やおでん種文化を継承するために、組合としてもサポートできればと思っています。

幼少からの夢はおでん種やさん、蒲鉾職人

– 八木さんの蒲鉾やおでん種に対する熱い気持ちが伝わってきました。次は八木さんの幼少時代と、蒲鉾職人を目指したきっかけについて教えていただけますか?

八木さん:私は昭和50年(1975年)生まれで、蒲鉾屋の長男として生まれました。父が昭和44年に蒲鉾屋を開業して6年後のことで、家は仕事場やお店を抜けて、居間に上がるような昔ながらの工場(こうば)と住まいが一体になった作りでした。ですから、両親が仕事をしている姿を毎日見ていましたし、幼いころの遊び場といえば工場でした。

八木さんのお父さまである「蒲鉾の八木橋」取締役 相談役の八木潔さんと一緒にアオザメを捌く
八木さんのお父さまである「蒲鉾の八木橋」取締役 相談役の八木潔さんと一緒にアオザメを捌く

小学生のころは野球をしたり、サッカーをしたりと普通の子どもだったと思います。ただ、家には原料となる魚があったり、釣りが好きな父と一緒に魚を釣りに行ったりと、魚には大変興味があったと思います。

大学の水産学部に行こうと思いはじめたのは中学生のときです。高校では東京水産大学(現在の東京海洋大学)に行こうと決めていました。予備校時代の先生たちにはもっといい大学をすすめられましたが、決心は揺らぎませんでした。

大学は食品生産学科で、主に食品加工学を勉強しました。4年次は食品加工学研究室(蒲鉾の研究をする研究室)で「白グチ普通筋のゲル形成能の関する研究」という内容で研究を行いました。東大と水産大、他の研究機関で当時の文部省から研究費をいただき、共同研究を行っていました。私の論文は「日本水産学会」でも発表されていて、学士論文が発表されるのは珍しいと思います。卒業単位は130でしたが、170単位くらい取得していながらも、カッター部で毎日ボートを死ぬほど漕いで、全日本優勝を目指していました。結果として優勝は逃しましたが、精神的に鍛えられ、現在に活かされていると思います。

– 生まれ育った環境が、蒲鉾職人という夢に大きく影響していたんですね。

八木さん:小さい頃の夢は、すでに蒲鉾屋だったようです。保育園で誕生日にもらうカードには、大きくなったら「おでん種やさん」になりたいと書いてありました。そのカードは今も残っています。それから今まで他の職業を考えたことがありませんでした。小さいときから蒲鉾屋で働く両親の姿を見て育ち、夏休みなどは早朝4時くらいから築地に買い出しに行ったり、包丁を握って魚を捌いたり、それがなにより楽しいと思ったのかもしれません。

めぐり合わせの偶然と先人たちの愛情によって拓けた蒲鉾の道

大学時代は3年間、年末になると小田原の蒲鉾屋で約1ヶ月アルバイトをしていました。2年生のときに小田原を歩き、自分の足で探したところです。路地で見つけた蒲鉾屋さんに話しかけると、蒲鉾組合を紹介され、次に職安を紹介され、最終的に鈴松蒲鉾店というところで住み込みで採用していただきました。

就職も迫った大学4年次には、教授から大学院での研究をすすめられましたが、父からも「外の釜の飯を食ってこい」とアドバイスされ、私自身も実際に働きたいと思っていたので、アルバイトをしていた鈴松蒲鉾店の社長に相談しました。

蒲鉾の八木橋:八木竜太郎さん
綺麗な揚げ色のさつま揚げ。わずか1日で何千枚ものさつま揚げを手作業で完成させる

すると社長は「もっと勉強になる蒲鉾屋に行きな」とおっしゃって、同じ小田原の籠淸に電話をされました。すると、籠淸の社長はふたつ返事で「4月から3年間、うちで頑張りなさい」とおっしゃってくれたんです。めぐり合わせによる偶然と、気にかけていただいている先輩たちによって、道が拓けたと思っています。

得るものが大きかった籠淸での修行時代

– 小田原でのアルバイトを経て、いよいよ就職ですね。

八木さん:はい、アルバイトをした鈴松蒲鉾店ではいろいろな経験をさせていただき、就職した籠淸でも多くのことを学びました。籠淸では3年間働くと決めていたので、社長には「工場で蒲鉾製造を3年間やらせてほしい、箱洗いでも下働きでもいい」と伝えたところ、「家業に戻ったら規模の大小かかわらず経営にたずさわるのだから、いろいろと経験しなさい」と言われ、1年目は工場での製造、2年目は営業管理、総務、経理、物流、続いて営業を担当させていただきました。そして、最後の3か月はふたたび工場で働かせていただきました。今では3年間工場で働くよりも、こちらのほうがより勉強になったと思っています。

– 1年目の工場での製造はどうでしたか?

八木さん:当初から実家では扱っていないものを修得したかったので、板蒲鉾などの蒸し蒲鉾、竹輪などを製造する部署に配属していただきました。
4月から入社して箱の洗浄や片づけなどしていましたが、半月後にはすり身を石臼でする工程を試させてもらえました。通常は入社したての素人にやらせる作業ではないので、今考えるとよく許可してくれたなと思います。最初の1週間だけ先輩や上司が一緒について教えてくれましたが、5月の連休が終わったころには私ひとりに任されました。

その後はいろいろな商品の石臼工程を任され、年末になると最上級の蒲鉾のすり身を石臼ですらせてもらいました。毎日2すりしていましたが、それで約550~600本位の蒲鉾ができあがります。職人さんが一緒にいるときもあれば、「よろしく頼むな」と言って姿を消してしまったりと、緊張感と責任感、くわえて自分自身がよいものを仕上げてやるんだという心意気が身についたと思います。

手での成形作業も毎日行っていましたが、器用なほうなので大抵の作業は短期間で身につきました。今思えば本当に出来がよかったかはわかりませんが、ベテランと新人が並んで普通に作業しているような状態でした。

蒲鉾の八木橋:さつま揚げ

– 先輩の職人さんたちは、八木さんの情熱や技術力を認めたからこそ任せたのでしょうね。

八木さん:ただ、板付け蒲鉾の成形だけは簡単にできるものではありません。工場が終わって時間があるときには30分から1時間ほど、分けてもらったすり身で練習をしていました。休みの日も許可をいただいて練習に励みました。いつもひとりなのですが、休みの午前中は職人歴60年の嘱託の職人さんがきてくれて、ふたりでよく練習していました。そのおかげか、入社した年の年末にはベテランの職人さんの傍らで手付けの蒲鉾の成形で包丁を握っていました。まだまだ上手ではなかったと思いますが、今でもあの緊張感は忘れられません。

賃金や時間は関係なく、とにかくいろいろと体験したくて、今までできなかったことができるようになるのが本当に楽しく、逆にできないとすごく悔しいと感じていました。今思い出すと、我ながらよくやっていたなと思います。

一級技能士への挑戦と取得の意義

– とても有意義な体験だったんですね。工場の製造業務から離れたあとは、蒲鉾を作らなかったのですか?

八木さん:工場は静岡だったので、小田原で勤務していたときは蒲鉾を作る時間や場所はありませんでした。しかしながら、小田原蒲鉾組合が月に1度、成型などの技術を教えてくれる勉強会を開いていました。そこで社長や上司にお願いして、毎月そこで名人に成形の手ほどきを受けていました。当時は丸う田代、杉兼の会長さん(故人)、鈴廣の佐賀さん(現在は退職)にいろいろ教わりました。

千葉県野田市:蒲鉾の八木橋
一級水産練り製品製造技能士は、通常10年ほど勤めて2級を取得、さらに10年くらいあとに1級を取得する

じつはアルバイト時代にも鈴松さんのご紹介で1度だけ参加したことがあるのですが、名人はそのことを覚えていらっしゃって、1年間の工場での成果を披露すると「もう何年勤めているんだ?」と驚かれていました。私が「まだ1年です」と返事をすると、「今年の技能検定一級を受けろ」とおっしゃいました。

– 水産練り製品製造業の一級技能士の資格取得は、それがきっかけだったのですね。

八木さん:技能検定があるのを知ったのはその時が初めてでした。通常は10年ほど勤めて二級を取得、さらに10年くらいあとに一級を取得する方が多いのですが、すぐ受けろと言われてびっくりしました。当時は実務10年以上という規則があったので受検資格を満たしていませんでしたが、名人は「俺が言うんだから受けろ、大丈夫だ」とおっしゃいました。それではと一応申し込みはしましたが、国家資格のため当然許可がおりず、10年後の33歳で受験をして取得しました。

– 33歳での取得は、当時おそらく最年少だというニュースを拝見しました。この資格は他の職人さんも取得を目指すものなのでしょうか。

八木さん:普段から手で製造している職人であれば、できて当たり前のことなんです。また、できなければ商売にならないと思います。また、取得しても、それをうまくPRできなければお店の役にも立ちません。ですから、東京の蒲鉾屋の皆さんはあまり興味がないようです。「できて当たり前のことに資格なんていらない」というわけです。私は現在、東京都の技能検定の主席検定委員、そして筆記試験の問題を作成する中央能力開発協会の委員もしておりますが、自分が持っている技能のすばらしさを伝えるためにも多くの方に取得していただきたいと考えています。

蒲鉾の八木橋
蒲鉾の八木橋で働く若手の職人さん。八木さんは技能検定委員や子どもたちに向けた蒲鉾教室など、若手の育成にも力を注いでいる

また、ペーパードライバーのようにただ資格を持っているだけでなく、その資格を普段の仕事に十分発揮してもらうことと、その技術をさらに磨きあげることが大切だと思います。私たち製造者は製造し続けるかぎり、若いころと同様に技術の向上とよりよいものを作ろうとする情熱を絶やしてはいけません。終わりというものはないのです。

現実に向き合いながらも理想をあきらめない

– お話をうかがっていて、八木さんは幼いころから現在まで一切ブレがないように見えます。なにが原動力となっているのでしょうか。また逆に、蒲鉾を作り続けるうえでの葛藤はあるのでしょうか?

八木さん:蒲鉾づくりの面白さは、魚の形状がまったくなくなって、付加価値をつけて新たなもの(商品)に生き返ることだと思います。ですから、「魚の命をいただいている」気持ちを忘れずに、その命を決して粗末にしないことを念頭においています。買い付けした原料はたとえ多少鮮度が落ちていても、使ったことのない種類でも、自分の手で美味しいものに作り変え、お客さまに食べて喜んでいただくことを第一に考えています。これは保存や加工を含めた自然の生き物との知恵比べですから、いちばんの面白さになるのではないでしょうか。

葛藤は、極論をいえば「理想と現実」です。経営していく以上、売上と適正な利益を得なければ事業の継続はできません。私はできれば、生の魚だけで自分の納得いくものだけを作りたい、自分が売りたいものだけを作りたいと思っていますが、それでは経営は成り立ちません。自分がいいと思っても売れるとはかぎらないのです。

蒲鉾の八木橋:八木竜太郎さん

経営資金もそうですし、コストや人の問題、技術の継承、さらには現在クローズアップされている原料の問題など、課題は山積みです。そのような中でも、お客様を裏切らない商品作り、理想へとなるべく近づけていく努力が必要です。大変ですが、この葛藤があるからこそやりがいを感じるのかもしれません。

– 貴重なお話、ありがとうございました。

八木さんは非常に勉強熱心な方である。そして、誰よりも蒲鉾業界について真剣に考えて、実際に行動に移している。東京おでんだねとの交流も、八木さんが都内の蒲鉾屋さんを調査しているときにたまたま当サイトを発見したことから始まった。「蒲鉾業界の役に立つのなら」と作業現場の見学(魚のすじの製作工程の記事はこちら)や、業界の方々へのご紹介など、親身になってご協力いただいている。

八木さんへのインタビューを通して、東京の蒲鉾屋、おでん種やさんの魅力や、職人たちが秘めている情熱がすこしでも伝われば嬉しく思う。

蒲鉾の八木橋の基本情報

蒲鉾の八木橋
〒278-0037 千葉県野田市野田241
04-7122-8712
定休日:日曜
営業時間:9:30~18:30
蒲鉾の八木橋のWebページ

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