東京おでんだね活動のきっかけ

おでんが注目されるのは秋冬であり、東京おでんだねへの取材依頼も同じころに発生する。TV出演することもあり「なぜ活動をしているのか」という質問を受けるので、今回はあらためてそのきっかけを語っていきたい。

幼少期に触れたおでん種体験

東京おでんだねを運営している筆者(源太)とおでん種専門店の出会いは、幼少期にまでさかのぼる。
筆者は文京区で生まれ、北区の王子にある豊島五丁目団地で幼少期を過ごした。毎週末になると広場で開催される「かたつむり市」で出張販売していた平澤蒲鉾店のおでん種を母が買ってきて、家で調理して食べていた。また、父方の祖母が田端新町に住んでいたり、通っていた幼稚園が都電荒川線の梶原停留場にあったことから、荒川区の小台や熊野前に寄っておでん種を買うことも多かった。このあたりには大阪屋九州屋蒲鉾店などおでん種を扱うお店がいくつもあり、筆者にとっておでん種専門店は近くにあって当前の存在だった。

東京都荒川区東尾久 おぐぎんざ商店街:九州屋蒲鉾店
豊富なおでん種が揃うおでん種専門店(九州屋蒲鉾店)

幼少期のお気に入りのおでん種はカレーボール、うずら巻、ウインナー巻、ちくわぶなどたくさんあった。成長するにつれてごぼう巻や銀杏巻などに趣向が変わっていったが、これだけお気に入りが増えたのはおでん種専門店がさまざまな種類を揃えていたおかげだろう。家族全員で「あれが好き、これが好き」と言いあいながら鍋をつつく食卓は、筆者にとっての家庭の原風景である。恵まれたおでん環境ではあったが、姉弟3人の好みにあわせておでん種を揃えていた母の苦労も相当なものだったのではないだろうかとあらためて感謝している。現在は筆者を含めて子どもたちは独立し、それぞれの道を歩むことになった。おでんは過去にさかのぼることができない、二度と味わうことのできない家族の体験として心に残っている。

子ども時代への原点回帰

その後、高校入学時に北区から池袋周辺に引っ越し、さらに成人して実家を離れると、次第におでん種専門店は遠い存在になっていった。おでん種専門店が近くに存在しなかっただけでなく、年齢的にもお洒落で真新しい料理に意識が向いていたことがあるのだろう。さらに30代前半には中国の上海と大連に7年ほど駐在することとなり、おでん種専門店に接する機会はほとんどなくなった。

中華人民共和国:上海
東京おでんだねの筆者が駐在していた上海の風景

日本を遠く離れ、年齢も40代に迫ってきていたころ、なにげなく観ていた日本のドラマに強い郷愁を覚える機会があった。役者の背後には東京の住宅街や商店街の風景が映し出されていて、無性にそれらの場所を散策したくなったのだ。思えば幼少期から東京の街を歩くのが好きで、平凡な風景でも目新しく感じていた。青年期にかけて新しいものや刺激的なものを求めて歩み続けてきたが、人生の折り返し地点に立ってみて、あらためて過去に愛していた日常のあたりまえの価値に気づいたのかもしれない。

祖母への思いとおでん種専門店への思い

駐在を終えて帰国すると、さっそく馴染みのある東京の街を散策した。幼少期に過ごした王子周辺はもとより、かつて母方の祖母が過ごした荒川区の尾久町(現在の東尾久や西尾久周辺)にもおもむいた。

東京都荒川区小台
尾久町があった荒川区小台の現在の風景

祖母は若いころに尾久町で芸妓として活躍していた。その後は夫を戦争で失いながらも、ひとりで池袋西口で小料理屋や大衆食堂を開いたり、南池袋で割烹料理屋を営んだ。芸事に長け、日本舞踊では歌舞伎で有名な二代目尾上松緑(二代目藤間勘斎)率いる藤間流の名取となり、小唄では師範にもなっている。他者にも厳しかったが、人に頼らず自分の信念を貫き通した彼女の存在は今でも筆者の憧れとなっている。

東京おでんだねの筆者の祖母
東京おでんだねの筆者の祖母:尾久町での芸妓時代

祖母が活躍したかつての尾久町はラジウム鉱泉の温泉がある歓楽街だったが、筆者の幼少期でもその名残のあるものは少なかった。しかし、あらためて歩いてみるとさらに面影はなくなっていた。なんだか祖母の存在が失われていくような寂しさを感じ、後世に残していかなければならないと感じた。その道中にかつて通っていたおでん種専門店を発見し、祖母への思いと幼少期に親しんだおでん種専門店への思いがシンクロした。

東京おでんだねの筆者の祖母
東京おでんだねの筆者の祖母:入院時のひとコマ

おでん種専門店のおでんをひさしぶりに食べ、あらためて幼少期のおでん体験がよみがえると、東京のほかの地域にもお店はないかと思いはじめた。なぜなら、別の地域でも筆者と同じように素敵なおでん体験をした人々がいるのではないかと興味を持ったからだ。すると、閉業してしまったお店が数多くあることがわかり、それらのお店に関する情報もあまり残っていないことに気がついた。このままでは祖母の存在と同じように、おでん種専門店を通した素晴らしい体験が消え失せてしまう。年々減少するお店の記録を残し、さらにその魅力を多くの人たちに知ってもらいたい。そんな思いからウェブサイトを開設し、東京おでんだねと命名するに至った。

東京おでんだねのこれから

それからの活動の詳細はこのサイトをご覧いただければと思うが、筆者は料理としてのおでんそのものが熱狂的に好きというわけでもなく、おでんであればなんでもいいというわけでもない。どちらかというと、自身を含めたおでん種専門店を取り巻く人々の思いや歴史に興味がある。しかし、おでん種専門店の店主やメーカーの人々との交流を経て、おでん種や蒲鉾自体にも魅入られつつある。

東京のおでん種やさんで働く方々

蒲鉾製品は美味しいだけでなく、良質なタンパク質と豊富な栄養素がとれるのが魅力だが、年々需要は減りつつある。おでんを通して蒲鉾の魅力を伝え、新しい世代の人々にも好きになってもらいたい。今はウェブサイトを通してその魅力を発信することしかできないが、後々にはあらゆる可能性を試すことができればと考えている。東京おでんだねの活動を通して、職人さんやメーカーの方たちの蒲鉾に対するひたむきな情熱に感化されたというわけだ。

そして、おでん種専門店に通うことで店主たちの人情に触れることができた。職人気質でありながら、人懐っこくてあたたかい。さらに目をむけると商店街のほかのお店や地元のお客さんにも人情があふれており、それぞれに人生のドラマがある。これらの素晴らしいものたちが失われつつあることに危機感を覚え、魅力を伝えることで協力ができないものかと思っている。

東京おでんの調理方法

そもそもの動機が筆者本人の「思い出補正」や「ノスタルジー」によるため、現在は地元である東京のおでん種専門店に限られてしまうが、たとえば東日本大震災で被害のあった宮城県石巻の「石巻おでんプロジェクト」のように、おでんを通した地域活性化にも協力したい。現在はあくまで営利目的を排した個人の趣味での活動になるが、ゆくゆくはそこから一段飛び越えられたらとも思っている。

正直、毎週の記事のネタにも頭を悩ませており、明確なロードマップも描けていないのが実状だが、東京おでんだねの活動を支持してくれる方も増えている。おでん種を通して東京のおでん種専門店や商店街、そして東京以外の地域が活性化するように、今後も地道に活動を続けていきたいと思っている。

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